「渋沢青渕翁 野田観桃記行」p5-7・20-22 活字起こし

..トップページ電子資料室展示コーナー>「渋沢青渕翁 野田観桃記行」p5-7・20-22 活字起こし

「渋沢青渕翁 野田観桃記行」p5-7 活字起こし

(複製)渋沢青渕翁 野田観桃記行の出発から野田に向かう途中までを活字起こししたものです。
P5
青渕先生野田観桃の行あり、余随行を辱ふす。
乃ち明治丗九年四月六日早起、日暮里停車場に抵り其来るを待つ。幾くもなく先生令夫人一僕一婢を従へ、腕車を連ねて至る。一行七時十一分下向の車に搭し、発軔し日暮里三河島三輪等の緒村を過ぐ。西南一帯の丘陵淡靄未だ消せず、東台の一角白雲靉靆し、菜圃麦隴、朝露未だ暉かず、東風徐ろに面を撲つも亦甚だ寒からず。北千住停車に至り下車、総武線汽車の来るを待つ。略一時此間先生愛嚢
P6
より一冊を示出し示さる。是れ宮本鴨北翁の野田看桃記なり。浅田栖園の序あり(栖園は栗園翁の子)中に小圖を挿む。其地理の一体を想像するに足る。先生之を展読せらる。余傍らより旦聴き旦窺る読未だ畢らさるに俟つ所の車已に到る。即ち之に搭す。竹塚前後富嶽半天に聳え眺望殊に新あり。一詩を得る
青郊宛似故人逢花送柳迎韶景千濃壽忽過西望豁車窗喜見玉芙蓉
十時二十分越谷に至り下車、更に腕車を駆り、
P7
驛中の橋を過ぎ、左折して一路東方に向ふ。田圃一面麦緑菜黄相錯はり、處々桃花點綴し雞犬遠く聞へ頗る幽趣を覚ふ。行く已に十数町、平田開豁弥望数里北方遥に巍然として雪を冒し、其半身猶未た雲烟中に在て露は小さるものを見る。凝眸して其晃山なるを知る。更に行く数町にして路少し左に迂す。富嶽忽ち露はれ晃山と共に顧眸の中に入る。一は偉人の天を望むが如く、一は君子の人に対するが如し。其雄大の客、温粛の姿、人をして襟を/正ふせしむ。
展示内容へ戻る

「渋沢青渕翁 野田観桃記行」p20-22 活字起こし

(複製)渋沢青渕翁 野田観桃記行の愛宕神社の様子のあたりを活字起こししたものです。
P20
に係り、他の造醤場も其体裁は大同小異なりといふを以て、觀桃の時間を計り他場の巡覧を省き此を去り、車を走らして愛宕祠に詣る。其位地は市街の北方に位し近時修めて公園と為す。境内周すに土堤を以てす。其れ茂木啓三郎氏窮民に賃して作りたるものなりと。祠前石階数級を登れば小門あり、彫刻之を粧ふ。祠は方三間に足らすといへとも全躰盡く彫刻を施し頗る精巧を極む。八十年前の造営なりと云。境内千餘坪あるへく其東方の丘上に
P21
噴井あり至徳泉と称す。其水を引きて繊々たる【?】泉を作る。一碑あり由来を記す。丘上小搨数個を設く小憩すへし。祠後に小祠あり勝軍地蔵と称す。聞く所に據れば、征露役に当り其呪符を懐にしたるもの戦死なきを以て信仰弥尚はり爾来祠堂改築の為め勸勢せしに此一地方に於て已に一萬二千圓を得たりと、亦以て野田の富裕を知るに足れり。蓋野田全躰の生意は造醤家あるか為なるを以て、即野田は造醤家の野田にして野田の野田なるにあら
P22
ず。其戸数は千三百軒ありといふ。公園を去て街に出つ。野田の本町とも謂うべき處なり。街上幅狭からず越谷驛と伯仲す。数町の間瓦屋茅店錯落相違う。弘道會支部の門牌を看る。後に茂木啓三郎氏に聴けば、其会員三百五十名ありと。街路稍盡る處に一の割烹店あり、是れ「鴨北翁野田紀行」に見る尾州楼なり。右折又左折して道田圃の間に入り麥隴桃花の中を行く。愈進む桃花愈多し。已にして櫻樹路傍に列り爛漫として晴に嬌る。・・・・・・
展示内容へ戻る