野田の戊辰戦争2

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1.幕末における関宿藩
2.上野戦争
3.上野戦争後の関宿藩
関連所蔵絵図解説
参考文献

上野戦争―関宿藩士の活躍―

関宿藩の佐幕派の一部は藩主に殉ずるとして彰義隊に加わった。卍(萬字)が久世家の替紋であったのでこれに因んで、卍字隊(萬字隊)と称し、奥原秀之助が隊長となり、開戦当日は彰義隊の近藤武雄が実践の指揮をとった。
彰義隊の組織は一組を25人とし、組毎に組頭、副長、伍長を置き、その二組を束ねて隊長一人を置いた。隊号は、本隊を1番より18番までとし、付属隊として歩兵隊、砲兵隊があり、別に各藩の脱走者で組織した遊撃、純忠、臥竜、旭、神木、浩気、猶興及び久世藩の萬字隊などがあった。これら諸藩の脱走者の中で久世藩の人数は最も多勢であって、久世紛争が深刻で藩臣の動揺が大きかったことを示しているといえるだろう。
5月15日午前6時半開戦になり、萬字隊は山王台に陣を布いた(現在の西郷隆盛像の付近)。上野山内の周囲の八門(黒門、新黒門、穴稲荷門、清水門、車坂門、屏風坂門、谷中門、新門)があったが、当日の戦闘では、正面の黒門の攻防が最も激烈を極め、官軍は中々これを撃破することができなかった。これは、山王台に陣した萬字隊が黒門口の官軍に盛んに砲撃を加えたからで、官軍は死傷者が続出し、出退きわまる状況であった。そこで官軍は、兵力を増強し、死力を傾けて、まず、山王台の萬字隊を攻撃し、昼過ぎには彰義隊は総崩れとなり、敗北した。
死傷者の数は、卍字隊(萬字隊)のうち5名が戦死、11名が傷を負ったと、宇野田鶴雄・懐中日記に記録されている。尚、この上野戦争には原田左之助(新撰組)も、会津へ行く永倉新八らと野田市山崎で別れ、江戸へ引き返し戦っていた。しかしこの戦争で命を落としている。
本能寺合戦之図1 本能寺合戦之図2 本能寺合戦之図3
本能寺合戦之図 (関連所蔵絵図解説)

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