野田と小金牧2

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1 小金牧
2 将軍の鹿狩
3 下総牧のその後
4 庄内牧(野田の小金牧)
5 庄内牧(野田の小金牧)2
参考文献

将軍の鹿狩

小金鹿狩将軍御立所絵図
小金鹿狩将軍御立所絵図(寛政7年小金原御狩之記図会)
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馬は野で育てて、野で捕まえる形の放任経営の馬牧であり、江戸時代正式に幕府の牧として定められましたが、計画的かつ積極的に馬の飼育が行われていたようではなかったようです。
そのため、牧とはいえ、ごく自然のなるがままの形で、得るものを得られるときに得ていたという方式で、野馬は牧場外の村や畑に侵入して耕作物などを荒らしました。 また、自然のままの藪林のため鹿や猪、兎、鳥類なども繁殖し、それらによる鳥獣被害も大きいものでした。
このため、各村々は、村境に高く堅固に築いた野馬除土手や深く掘った野馬堀で自衛しましたが、完全に防ぎきれず農耕被害に大変苦しんだようです。
そのうち、年貢が減るなど幕府や旗本たちもこれを見過ごせなくなり、八代将軍徳川吉宗の小金原御鹿狩りが行われることになります。
小金牧の放牧場の地域は、別に小金原とも言われ、ここで八代将軍吉宗を始めとして、3人の将軍が4回にわたって盛大に鹿狩りを行いました。
鹿狩は、小金牧・中野牧の鳥井戸原を舞台として、享保10年(1725年)を第1回として、同11年(1726年)に八代将軍吉宗、寛政7年(1795年)十一代将軍家斉、嘉永2年(1849年)十二代将軍家慶により行われました。
寛政7年小金原御狩之記図会(興風図書館蔵)や嘉永2年小金野御鹿狩ニ付壱式之控(興風図書館蔵)、御鹿狩間数之写(興風図書館蔵)からも当時の状況が伺うことができます。

野田市内の野馬除土手
地図1 野田市役所前の案内板
地図2

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