野田と小金牧5

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1 小金牧
2 将軍の鹿狩
3 下総牧のその後
4 庄内牧(野田の小金牧)
5 庄内牧(野田の小金牧)2
参考文献

庄内牧(野田の小金牧)2

江戸後期に庄内牧は消滅しましたが、享保6年までは存在しており、古代には、長州牧があったとする説もあるくらい古くからあった牧です。
庄内牧の新田開発は、林畑新田であって、新田開発とは名ばかりの、以前の牧場と何ら変哲のない山林であったと考えられています。
野馬にしても庄内牧時代の野馬が相変わらず生息していて、里入りしては村々から追い返され、これをまた他の村々が追い返すという状態でありました。
そのうちに馬の数も増えて宝暦3年(1753年)には野田町・上花輪村・中野台村・堤台村・桜台村・清水村にも野馬の侵入があったため、野馬除土手を田沿いに築きました。
それでも、船戸・中里、果ては、関宿辺りまで野馬が出没するという事態になっていました。
岩本石見守がこの長年に亘る多くの農民の願いであった越馬、里入り馬を上野・高田台両牧へ野替えすることによって、農耕被害を防止した業績は感恩碑建立にも見られるように、農民にとっては、真に神仏のような善政そのものであったといえるでしょう。
野馬除感恩塔(中里・愛宕神社)は野馬の里入り防止に配慮を加えてくれた石見守に対する感謝の記念碑です。
この他に野田市船形に一基建立されています。
野馬除感恩塔には「石見守 寛政十一未(1799)十二月吉日 御野馬内入不仕民祝 中里惣村中」と刻まれ、船形・香取神社の寛政12年(1800年)の感恩塔とともに、当時の小金牧野馬奉行(長官)だった岩本石見守に対する感謝と庄内牧の所在を今に伝える貴重な史料になっています。
岩本仰喜謝恩の碑(船形・香取神社) 野馬除感恩塔(中里・愛宕神社)
上:野馬除感恩塔(中里・愛宕神社)
左:岩本仰喜謝恩の碑(船形・香取神社)

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