野田と小金牧4

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3 下総牧のその後
4 庄内牧(野田の小金牧)
5 庄内牧(野田の小金牧)2
参考文献

庄内牧(野田の小金牧)

江戸初期、小金牧には7牧ありました。庄内牧、高田台牧、上野牧、中野牧、一本椚牧、下野牧、印西牧です。
庄内牧は、現在の野田市内にありました。
江戸時代初期までは牧として機能していましたが、他の牧のような高低差が少ない平坦地で開発が容易であるために、新田開発が行われました。
そのため、野田の牧は早い段階で幕府牧としての機能を終えました。
江戸時代の庄内牧は北部の上野と南部の下野に分かれていましたが、これは江戸初期の新田開発(花井新田など、いわゆる七ヶ新田の開発)によって、中央部が牧から村になり、牧が野田から消滅しました。 この地域の新田開発は、寛文・延宝期、享保期と寛延期の3度、行われています。
寛文・延宝という時期は、江戸川低湿地帯の開発が一段落し、深井新田、平方新田、岩名新田などが誕生して、下総台地内陸部の牧周辺が開発の対象として進められた時期です。
小金牧の開発は、寛文・延宝期に盛んに行われました。
享保期の新田開発は、幕府の年貢増徴策によって行われました。
この時期には9つの新田が開発されました。庄内牧下野の南部と上野の南部が開発の対象となっていました。
庄内牧は3期の新田開発で、27新田、石高4,262石2斗5升9合5勺、反別1,111町5反5畝5歩が開発されました。
これで、庄内牧の全域は開発されたと見られています。
なぜ庄内牧と言われているかといいますと、ここは庄内領だったからです。
花井神明神社の「下総国葛飾郡庄内領花井新田」と石に彫られていることから確認できます。
享保8年に一本椚牧は中野牧に吸収され、庄内牧は新田開発のため、消滅したので5牧となりました。

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